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zoom RSS 「教室内(スクール)カースト」鈴木翔

<<   作成日時 : 2013/07/21 11:01   >>

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学校の様子は子どもたちから伝え聞く程度であり、都市と地方ではある程度構図も異なることが予想されるが、最近の学校はどうなっているのだろうという関心で手に取ってみた。古市憲寿さんの著作のように本田由紀さんの解説付きである。大学院生としての研究が母体となった新書であるが、学術的にシャープな記述は抑えられている。アンケートやその統計学的な処理、そしてそれらに対する解釈といった手続きについては大幅に割愛されており、読者は筆者のコメントを何となく信じながら読み進めるしかないところに些かもどかしい印象をもった。

対象となる集団を客観的に調査して解析することは研究の手続きとして適切なものであるが、全体として感じることは教育現場における圧倒的な方向性の不在、現状の容認であった。多くの人で成り立つ社会に対してどのような姿勢をもって参加するべきかという課題について、今の学校は何の指針も示すことがないということがよく分かる。価値観の相対化が極端に進行した結果、教員は子どもたちに対して何らかの価値観を提供するということをやめてしまっているようである。一部の聞き取り調査で判断するのは拙速と思われるが、本書で取り上げられる教師のコメントには薄ら寒いものがある。クラスの子どもたち対して、「生きる力」が強そうなグループを中心に教室運営を行い、そうした力が弱いように思われる集団に対しては「あれでやっていけるのだろうか」と懸念する教師たちは、単なる傍観者でしかない。むしろ悪いことに教師が現状を追認することにより、教室内カーストは強化されている可能性すら示唆されている。

教育のそもそもの目的の一つは、教育を受けた人間の態度を変えることであるが、そうした原初の目標はここで取り上げられた教室では無視されている。教室運営は教師にとっては大変な難事業であり、実際的なノウハウがあることは想像できるが、教師たちのあまりにも第三者的なコメントには驚かされる。社会全体に無責任体制が蔓延し、いきすぎた弱肉強食にも歯止めがかからない現代において、学校でできることは限られているという諦念なのだろうか。家庭における教育が重要であることは論を待たないが、社会に貢献する「立派な生き方」とは何かという問題について、大人が沈黙していることは果たして良いことなのだろうかという疑問が残った。こうした基礎的な研究は、教室内の人間関係を理解し、それに対する教育の取り組みを改善するために役立てられることと思われるが、現状を解析し対応を最適化するというミニマムな取り組みでは問題は解決しないだろう。そもそも「クラス」を作って同年代の子どもたちを多数集めて何を経験させるのかという大きな問題から考察することが求められているのではないだろうか。「クラス」による学修には一定の意義があると思うが、それは本書で取り上げられているような外部の社会構造をそのまま反映した「野生状態」の人間関係を追認していては達成できない。教育により変化がもたらされることを少しでも多くの子どもたちが認識できることが理想であるが、今やそうした取り組みに必要なリソースは現場には残されていないのだろうか。

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