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zoom RSS 「福島の原発事故をめぐって―いくつか学び考えたこと」山本義隆

<<   作成日時 : 2012/07/21 22:22   >>

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著者は科学史においていくつか重厚な作品を著しており、日本人と科学の関係を考える上で興味を持っているが、なかなか手を付けることができないでいる。一方で、著者は東大全共闘議長としてもよく知られているが、全共闘という運動そのものが私の世代にとっては理解が困難であり、著者本人に関しても全共闘に関わる情報発信は直後のもののみで、科学史家としての活動を開始してからはないようである。私たちの年代ではむしろ時代がかったルックスの駿台予備校の講師というイメージが強い。人文系の教養もある科学者が原発事故についてコメントを寄せると、どういう内容になるかという関心をもって本書を手に取った。

高木仁三郎の著作においても述べられていたが、原子力発電自体が社会に貢献する科学技術としては異例の出自を持っている点は見逃すことができない。第二次世界大戦においてどちらが最終的な勝利を収めるのかというぎりぎりの状況で、国家レベルで叡智を結集してようやく完成した原子力爆弾が、付随する様々な問題を棚上げにして成立していることはやむを得ないだろう。しかしそれが発電システムとして民生に転用された際に、見直すべき問題点はその巨大なエネルギーと引き換えに見過ごされている。事故が起こった場合のヒトへのリスク、人類のライフスパンを超える長期間にわたって管理しなければならない(実際には不可能といえる)高レベルの放射性廃棄物の存在などを考慮すると、原爆とセットで生み出されていなければ、一顧だにされない未完の技術ということができるだろう。ノーベルによる爆薬、ワットによる蒸気機関、様々な新技術がヒトの命を奪ってきたが、高レベルの放射能による脅威はそれらとは異なり、全地球的であり、かつ将来のヒトへの影響を含めれば歴史的にも極めて大きなダメージを与えうるという点で、従来の技術とは一線を画す。国内においては、プルトニウムの製造、蓄積という隠れた目標を議論しないで、原子力発電の功罪を議論することは難しい。「もんじゅ」のような狂気のプロジェクトは、こうした安全保障上の国策を抜きにして評価することは難しい。

後半は科学史における位置づけを探った論考であり、著者にとって重要なセクションと思われるが、本書のインパクトは些か弱まってしまったような印象もある。現在も、経済成長や、原子力ムラの問題など、数多くの論点がネットやその他のメディアに取り上げられ、様々な議論が進められている。しかし、そもそもこれだけの出鱈目がどうしてまかり通ってしまうのか、どうしてこれだけの力を持っているのかを考える上では、論者は核の技術の起源を問わざるをえないはずである。本書は、本質的な問題―原子力爆弾、世代を超えた放射能汚染、事故の際の巨大な損害―を回避した議論はいずれも欺瞞であることを分かりやすく示している。

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