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zoom RSS RIETI政策対談(2008年6月30日)と事業仕分け・その2

<<   作成日時 : 2009/11/22 23:29   >>

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RIETI政策対談(2008年6月30日)と事業仕分け・その1
の続きです。

次に対談は教育予算の総額の議論に移ります。GDP比の議論から、教育予算をGDP比5%にするには、7兆円を超えるお金が必要で、公共事業をゼロにしても足りないという話が出てきます。教育予算が全体の中でどの程度が妥当かはかなり難しい議論ですが、ここでも様々な計算は登場するものの、そもそも日本において教育に重点を置くことがどの程度大事かは対談の中ではふれられません。議論の主題を考えると驚くべきことです。開国から始まる躍進や第二次世界大戦後の速やかな回復の原動力の一つが、当時の国民の学力の高さであることについては様々な報告があり、国力というものを考える上で、日本では特に人材という観点が大きなウェイトを占めるはずです。「教育は重要というのは精神論」という指摘が出てきますが、確かに藤城さんにこの発言をした人物の中では精神論かもしれませんが、日本という国における教育の重要性についてはたくさんの研究成果を拾い上げて認識しておく必要があるのではないでしょうか。藤城さんに「精神論ばかり前面に出てくる」と言わせるわけですから、やはりここは反省するべき点だと言えます。「教育の重要性」を説く文科省の官僚や諮問委員の質が低いのでしょうか。また、日本が他の国に比べて教育に重点をおく必然性を論理的に説明してくれた人は一人もいないということですから、是非この問いかけに対して回答することが必要でしょう。

既に「ゆとり教育」による弊害は高等教育においても顕著であり、今までの「日本人」像は少なくとも学力の上ではかなり大きな変化をしてしまっています。自然科学分野の高等教育における学力低下問題は、現場の教員で気づかぬものはいないというレベルに達しています。現状を放置することはそれだけリカバリーを難しいものにするでしょう。

しかも教育よりも道路のほうが大事だと思う国民も中にはいるでしょう。それでは増税で賄おうとなると、7兆円というのは消費税の3%に相当する金額です。国民はイエスと言ってくれるでしょうか?


ここも巧みに国民を引き合いに出して自説を補強されていますが、高等教育を受けた人間であれば、現在の日本を見て教育より道路の方が大事ということはないでしょう。道路が大事だという意見があるからといって、どちらの言い分もイコールに考える必要はありません。道路どころか、食べるものにも事欠く国においても教育が重視されているのは何故かを考える必要があります。日本人はこれまで一般人の教育程度が比較的高かったために、教育の重要性を軽視しがちなのではないかと思います。国際人権規約における「中・高等教育の段階的な無償化」を日本が何故留保しているのか(条約加盟国157カ国で留保しているのは日本、ルワンダ、マダガスカルの3国だけ)については国民への説明はありません。どういう考えで留保しているのかは大変興味深いところです。

藤城さんは、1)日本はアメリカのように教育を受けることによるリターン(年収を指すのでしょうか?)の高い社会ではない、2)高等教育は義務教育ではなく、公費負担を増やすならば国民負担のあり方を議論しなければいけない(増税により政府の規模を大きくするのか?)という論点を提出されています。1)は前提として是認することではなく、教育を受けることが高いリターンに繋がる社会を目指すべきだと考えます。現在は、焼き畑方式で来年収穫がなくなってもその年の収穫が大きければよいと言う近視眼的な見方が優れているように取られる可能性が高い社会になってしまっています。2)については、是非とも議論をすべきだと思います。「増税して政府の規模を大きくするのか?という問いに対して、先程の大学関係者は答えなければなりません。」という藤城さんの発言がありますが、大学関係者は政府の規模までは責任はもてないでしょうが、教育はかなり優先順位が高い問題であり、場合によっては増税も必要であるということくらいは言うでしょう。

高等教育の重要性については、構造的なジレンマとして、高等教育を受けていない人がその良さを認めるというステップが必要という問題があります。しかしながら、少なくともある時期まではそうしたジレンマは今よりは小さかったように思います。民主主義国家において国の方針を誤らないようにするためには、教育は必須であり、そのためのコストを負担する必要があるという認識が弱い理由についても考える必要があるでしょう。

また、受益者負担の問題も考える必要があります。研究活動にはある程度、外部性が存在しますが、教育のリターンはどこに帰着するのでしょう。これは、まずは学生本人に帰着するところが大です。よい大学教育を受けて収入の多い職業に就く、そのような関係を考えれば、公費負担(税金)を引き上げて、大学生の学費負担を、税を通じて、たとえば大学生の子どもがいない(あるいは高卒のお子さんしかいない)ご家庭にまで求めるのか? これは、国民の理解を得られるのかといった判断が必要です。軽々に、欧州などで公費負担が高いから日本も高めよというような議論は成り立たないのです。


この部分も藤城さんが公教育に関するたくさんの議論に目を通す時間がないことを明瞭に示しています。教育のリターンは社会が受けるものであり、特に民主主義社会においてはその傾向が顕著です。国民の教育程度が低下し、物事の本質が分からないという例が増えてくれば、勢い近視眼的な政策しかとれなくなってしまいます。教育のリターンがまずは本人に帰着するというような観点で教育を見ているところに非常な危機感を覚えます。文科省の官僚にしても大きな違いはないのかもしれませんが。

教育・研究水準の向上のためには、内外の競争的環境をもっと確保しなければいけないし、議論の透明性・普遍性を確保しながら国民的議論を行うことが重要です。そして、厳格な相対評価を行うべきです。ある程度、研究力の高いところと低いところ、教育力の優れているところとそうでないところを適切に評価していけば、どこにお金をつぎ込むかも見えてくるはずです。


高等教育において研究力と教育力が分割されうるという考え方はどこからやってくるものなのかがまず興味深い点です。未知の課題に取り組み、解を出すことが要求される自然科学において、全く未知の課題に挑んでいない教員がどのようにこれを指導しようとするのか、非常に理解に苦しむところです。自然科学分野において、この二つの力は相当パラレルであることは、随分認知されているように思います。昔のようにすごい研究者であるが、授業は意味不明で退屈ということは現在では少ないのではないでしょうか。あるいは、教育重視の大学で学んだ学生が、研究重視の大学で育成された学生を凌駕し、素晴らしい研究者として活躍するというシナリオはかなり考えにくいです。後半で藤城さんは「研究の最前線でなく、後進の育成で頑張る」という例を良いものとして出されていますが、研究の最前線でもまれてこなかった人材が後進となる可能性は殆どありません。規模は小さかろうがそれなりに先端の研究に従事していた人材こそが、後進となるのであり、出来る限りそうした拠点をたくさん作ることことそが科学研究に栄養を与えることになると思います。

背景には研究指導を受けた学生は、研究分野でしか通用しないという誤った考えがあるのではないかと思います。通常、一流研究室と呼ばれるところで指導された学生は、研究以外の分野で働いていても優秀です。それは、研究をする態度というものは、企業やその他の場においても通用する汎用性の高いスキルであるからです。少なくとも自然科学分野では、「教育」と認定され、研究する余裕のなくなった大学は、単なる二流、三流大学へと固定されていくだけではないかと考えます。そこで、それを理由に廃止という考えであれば筋道は通っていますが、前述するように教育を重視しない民主主義国家という戦略は亡国への一里塚でしょう。

最近もある大学の学長と話をしたのですが、「この4年でかなり改革をやってきました」という話でしたが、おそらく4年という時間は、それなりに短い時間なのでしょう。しかし、一期で6年間、二期で12年間。12年間かけて改革していくというのでは、悠長でしょう。民間企業なら、12年間かけて問題を改善していては、潰れてしまいます。それなりにドラスティックなこともしなければなりませんが、そういうプレッシャーは大学にかかっているのでしょうか。


ここはある程度ポジショントークと見なさなければ、到底批評もできない部分ですが、それにしても酷い話です。先日、日本科学未来館の毛利さんが仕分け作業において猛然と反論されたところは記憶に新しいですが、大学を民間企業と比較するという考えには恐れ入りました。大変教養の低い方なのか、あるいはこれくらい言わないといけないと力が入りすぎたのか、疑問を感じます。財務省につぶされるというプレッシャーを感じながら、ドラスティックに改革を進めるという姿を理想と考えられているのでしょうか。そもそも大学とは何のために発明され、どのように発展してきたのかという歴史を知ればこうした発言は軽々しくはできないと思うのです。毛利さんのようにこうした見当違いの意見に即座に反論できる科学者は案外少ないのかもしれません。

なるほど。私も、正直いって自分のやっていることが仕事なのか趣味なのかわからない部分があります。ただ、自分にとっては趣味みたいなものでも、社会から見て役に立つ、その意味で説明のつく研究をしているつもりではあります。


これは玉井さんの発言ですが、このような認識の方がインタビュワーであるところに、この対談の限界があるように思いました。RIETIは経産省所轄なので、この対談自体は藤城さんに自由に意見を述べてもらうというのが主眼かもしれません。

他を削減してでも、資源を追加投入することの効果が見えるなら、議論の俎上にのぼるでしょう。つまり、現状を変えてアウトプット効率が良くなるとして、もう少し増やせば、ここまでできるということが説明できればということなのです。その結果、外部性が高まったり、新産業があちこちで起こってくるとなれば、もっと投資したほうがいいとなるでしょう。いまは、まさに、ベネフィットが判然としないままに、とにかくコストだけ倍にしてくれという要求になっています。そして、「なぜ?」と問えば、「人材立国だから」とか、「教育立国だから」とか、抽象論で、言葉だけ踊っています。よく意味が分かりません。結局埒があかないので、「それでは、大学を国民はどう評価しているのか」という最初の質問に戻るわけです。大学というと、みな敬意は表しますが、「それでは、大学のために消費税を1%(=2.5兆円)上げてください」と言われれば、おそらく困惑するのではないでしょうか。


この箇所も藤城さんが企業と大学の違いが分かっていない、あるいは分からない振りをしているところです。高等教育のベネフィットというのは、「外部性」とか金のことではなく、理屈の分からない近視眼的な人間が増えて社会が混乱すると言うことを未然に防ぐための「コスト」として理解することもできます。金のことばかりをいうのであれば、ベネフィットは判然としないものだらけでしょう。一方で、とても金額で算出できないくらい巨大なベネフィットというのも自然科学であればいくらでもあります。教育という問題の価値判断を、教育を受けていない人に委ねて良いのかという構造的な問題に目をつぶるのは良くないことです。しかも、現在、国立大学で問題になっているのは、「運営費を倍にしてくれと言う要求が通らないこと」ではなく、「最低限の研究を成立させる基盤もなく、機器も更新されず疲弊した地方大学はこれでよいのか」という点であり、問題のすり替えも起こっています。1%運営交付金削減をいつまで続けるのか、地方大学の自然科学研究が滅びるまでやるのかという観点を議論していただきたかったです。

仕分けと絡めて批判が多くなってしまいましたが、後半は特に藤城さんの議論の中に重要な指摘がたくさんあります。総合大学の位置づけなどは、そのポテンシャルへの期待など、非常に重要な指摘だと思います。雑務が多いのであれば雑務を減らせというのもその通りで、そうした方針がどこまで文科省に効き目があるものかは大事なところです。SとAの評価だけならば評価の必要もないというのも全く同感ですが、SとAだけの評価は「大学というものは短期間の事業評価に馴染まないのだ」という大学人の精一杯の反抗のようにも思えます。

自然科学の研究者にとっては耳に易しくない意見ですが、頭から拒否できるような話ではありません(しかも頭から拒否して大変なことになるのは、研究者の方なのです)。どういう背景から、どのような発想が生じ、それがどのような指針として私たちにふりかかってくるのかについては、よく研究する姿勢が必要だと思いました。

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