読書の記録

アクセスカウンタ

zoom RSS 「いのちはなぜ大切なのか」小澤竹俊

<<   作成日時 : 2008/06/24 01:25   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

著者はホスピス医であり、「ホスピスの伝道師」として現在も精力的に講演等の活動を続けているそうである。「いのちはなぜ大切なのか」という魅力的なタイトルであり、いったい何が書かれているのだろうと期待して読み始めたが、読了後は、こうしたテーマで何か斬新なことが書かれていたとしたら、かえって反発するだろうなあという納得に近い気持ちを感じることになった。従来から、論議されているポイントを一つ一つ取り上げ、著者の意見が述べられている。厳密に読めば、問いと著者の答えは必ずしも正確には対応しておらず、話をそらされてしまったように感じるところもある。しかし、それも聞く人が納得できるかどうかという観点からすれば、適切な答えと言えるかもしれない。本文中にも何度も出てくるが、「死」の問題は一般論として捉える場合(三人称の死)と自分の問題として考える場合(一人称、二人称の死)では、全く別の話題と言っていいほどの懸隔がある。その辺りの事情を解きほぐすように話は進んでいくが、著者の言う「普遍的な考え方」がどの程度、個別の死を考える上で役立つのかという点についてはもやもやした印象が残った。著者は普遍的な考え方にたどり着く方法の一つとしてフッサールを持ち出したりしているが、普遍的な考え方があるとして、それがどこでどのように役立つかが難しいところである。

いのちを大事にしない人間の類型として、辛いことや苦しみの存在が指摘されている。この指摘は重要ではないだろうか。基本的に、「いのちの授業」を始める前に、個々の人間を苛んでいる苦しみについての考察が必要であるように思う。後半で出てくる、「自己肯定感」という心の働きもやはり苦しみが取り除かれないことには得られにくい。

個人的には「普遍的な」いのちの大切さというのはある程度、論理的に説明できるように考えている。しかしながら、現代においては、特に若年層における知識レベルの低下は著しく、まずは何よりも教育が必要である。それは必ずしも情操教育である必要はない。著者は子どもたちの理解力を信用しすぎている節があり、何よりも肯定してやるところから全ては始まるとしているが、十分な知識を与えないことには議論すらできない。いのちの問題を難しくしているのは、無知とその上での宗教的なものへの信仰かもしれない。若年層の教育における疎外の問題に目を向け、「いのちの授業」が成立するために必要なフォーマットをどう整えるかが重要なポイントであるように思う。その際にはフッサールではなく、より基本的な読み書きの問題や科学的な態度の獲得に焦点があてられるのではないだろうか。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「いのちはなぜ大切なのか」小澤竹俊 読書の記録/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる