「なぜ科学を語ってすれ違うのか‐ソーカル事件を超えて」ジェームズ・ロバート・ブラウン

「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれる論争について、私の知る範囲では必ずしも日本では適切に紹介されているとはいえないような気がするが、それは単に宗教的なバックグラウンドの問題ばかりではなく、西洋哲学の伝統とも関係があるのかもしれない。一人の科学者として見た場合、「ソーカル事件」のインパクトとは、ポストモダン思想の一部にはここまで知的退廃が進んでいるのかという驚きであったが、本書を読むことを通じて、そこにはより大きな思想的背景が存在することを理解できた。最終章まで読むと、本書は人間の営みの中で科学という手法をどう適切に利用するべきなのかというより高い次元のテーマを掲げていることが分かる。

序盤から中盤、特に中盤は社会構成主義の問題点が丁寧に批判されるために、自然科学者が読者である場合はかなりの忍耐を強いられる。クーンのいう「パラダイムの転換」が起こる際に、次のパラダイムが選択される根拠が社会的な要因であるなどという議論は自然科学者にとっては噴飯もので、議論するに値しない戯言である(例:フォアマンの量子力学の受容についての説明:ワイマール共和国の科学者たちは反知性的な機運の高まった社会環境に生きていた。そのため、厳密な因果律を放棄している量子力学を受容することは、自分たちに対する社会的評価を高める上でメリットがあった。そのため彼らは量子力学を積極的に受容したのである。)が、そうした議論が生じる背景を知っておくことは、非自然科学者が科学を理解し受容する際にどのようなハードルがあるかを知る上で意味があるだろう。科学の手続きを知らない人たちにとって、「パラダイムの転換」の際に起こることを理解することは非常に困難であり、一つ間違えば恣意的な転換と見られることすらある。「合理的論拠」に関する議論は本書の中でも重要な部分であるが、自然科学者にとって当然のことを説明するこの箇所はもしかすると成功していないかもしれない。しかし、「自然科学における「思考実験」のプロセスを説明することは社会構成主義には不可能でないか?」という問いかけは重要なもので、この問題の本質を突いているように思える。

後半の科学者の立場と代表制民主主義との関係についての議論は、事業仕分けに端を発した科学技術予算の問題を考える上でも重要なヒントを与えるものである。ある分野についてよく調べることを通じて専門性が高まることにより、浅い知識や感情的な判断から生じる大衆の意見と対立した見方が代議員に生じることが代表制民主主義のメリットである。科学についてはこの見方を反対方向にも適用して、社会の中での科学というアプローチの有用性を理解し、適切に説明できる代表者を科学者の中から選択し、科学者のもつ権利の多くを委任するというやり方が成功につながるのではないだろうか。国内には日本学術会議という組織があり近年社会的な発信が増えてきているが、今後はさらにその役割の重要性が高まるだろう。

社会と科学との関係を考える上では、ウィリアムズ・ジェニングス・ブライアンの進化論攻撃を取り上げた章も興味深い。個人的には著者も本書で指摘するように浅薄な理解しかできていなかったため、単なる愚か者というイメージで見ていたが、何故彼が進化論を攻撃するに至ったかを知ると、簡単な話ではないことが分かる。そして、裁判の経緯を知れば、科学者の社会への発信がどうして大事かということについても理解が深まるだろう。

自然科学者としては、人間の営みとして唯一成功を収めているアプローチである「科学」については、より普遍的に教育を進めるべきであり、日本国内でいう「文系」などというジャンルは本来ありえないと言いたいところであるが、究極の目標に至るまで、自然科学者は社会との対話という長い道のりを歩まなければいけない。

追記(2011.1.15):
 「海洋学研究者の日常」の議論、特に科学者の有るべき姿や、科学論についてのご意見は、私にとって大変勉強になるものです。私の記事がここでご紹介され、また多くの点で同意いただいたことはとても励みになりました。私の記事は個人的な感想が主体のため、これから本書を読む予定の方には些か不親切ですが、市川先生のブログでは内容についての紹介もございますので、この欄をご覧になった方にはこちらを是非お読みいただきたいです。
 市川先生の掲げられる科学者像への道のりは大変厳しいものですが、社会に対する責務をきちんと理解しない研究者の存在は、科学研究の将来を暗いものにしてしまうでしょう。科学者としての辛抱強い歩みに耐えられなかった結果として、社会への啓蒙活動をしている(ように見える)研究者は、科学という営みに対する背信行為をはたらいているように思います。本書にも描かれる、自分の浅い考えに都合の良い部分をつまみ食いして、合理的な思考プロセスを辿ることがない社会構成主義者の姿には本当に腹が立ちますが、そうした論者に迎合するような科学者サイド(世間から見てという意味ですが)の声があることも大きな問題です。彼らの声は大きいので対抗するには大変な労力が必要ですが、無関心を決め込んでいる多くの研究者の意識が変わっていくことにより、少しずつ変化をもたらすことができるのではないかと考えています。

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