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zoom RSS 「背信の科学者たち」ウィリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド

<<   作成日時 : 2014/08/26 21:43   >>

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本書はしばらく前まではブルーバックスから刊行されていたが、絶版状態であった。理研や分生研、医学部を舞台とした論文捏造事件が相次いで報道された本年、まさにタイムリーな再刊といえるだろう。帯にもあるが、大阪大学の仲野先生が強く推薦したこともweb では話題になった。本書は科学者のミスコンダクトを考える上では類稀な事例集となっているが、一方で平均的な科学者像を社会に広める上では非常に問題の多い著作と言える。トーマス・クーンはその主要な著作「科学革命の構造」によって、科学の社会への適切な受容を何十年と遅らせたのではないかと筆者は考えているが、本書にも強いクーンの影響が感じられる。竹内薫、茂木健一郎といった国内のサイエンスライターが、科学を社会に普及させようとしているようでいて、時に科学者達を後ろから撃っているとしか思えないようなことを述べることがあるのは、彼らの根幹に相対主義的な科学哲学があるということは以前に述べたが、本書の著者らも彼らと同様、科学者としての訓練を出発点に持たないことが、本書の決定的な弱点につながっている。著者たちは欧米で有名なサイエンスライターであるが、「宗教を生み出す本能」で取り上げたように、十分な根拠と丁寧な議論がないまま自らの科学観を押しつけてくるようなところは本書においても感じられる。アメリカでは特にニコラス・ウェイドに対しては自然科学の研究者中心に批判があるが、日本では読者が少ないこともあり、そこまで強い批判はない。

科学者によるミスコンダクト(研究規範の逸脱)は科学の黎明期から存在しており、現在のように研究費や地位と研究成果が直結する仕組みが機能し始めてからは、さらに強いミスコンダクトへの圧力が生じているという解析は概ね正しいものである。科学者の数は近年急増しており、その中にはミスコンダクトに親和性のある人間が一定数いることについては疑いの余地がない。韓国の黄博士の国家による異様な厚遇や日本におけるiPSフィーバーを想起すれば、そうした人間を集めるだけの魅力が先端研究のスターにはあることがよく理解できるだろう。

さて問題が多いのは第7章「論理の神話」である。本書では、科学者個人の営みと、科学研究の進展が時に混同され、読者の誤解を誘う。ブレイクスルーをもたらす科学者個人の発想の源は、当時の社会情勢であったり、あるいは親しい友人との交流、あるいは失恋であったりするかもしれない。しかし、仮説は実験により検証され、他の科学者の研究により追試されることを通じて、妥当なものかどうかが決定されていく。メンデルやミリカンの不正は、科学史に関心のある方には有名な事例といえるだろうが、後世の研究は彼らの仮説が妥当であったことを示している。職業科学者が存在する前の時代の研究者に研究規範を問うのは意味がないというのが筆者の意見であるが、メンデルやミリカンが数値を誤魔化していようが(その行為自体は非難されるべきであろうが)そうでなかろうが、いずれは科学者が同様の仮説にたどり着いたことはほぼ間違いないだろう。彼らの仮説と大きく異なる別の仮説が市民権を得るような可能性はまず考えられない。一方で野口英世の得た成果は追試によって保証されることはなく、今では限りなく捏造に近い不適当な研究成果という評価を受けている。

科学論文は反歴史的なものである。なぜなら、原則的な科学論文の書き方は、歴史家の基本原則(誰が、何を、いつ、どうして)を初めから切り捨ててしまうことを求めているからである。(中略)つまり、科学論文の構成は神話を不滅にすべく企てられた虚構なのである。


科学は再現性こそが鍵であり、誰がいつやろうが同じ結果が得られることが、仮説の妥当さを保証する上では必須である。歴史家の基本原則を科学の議論に遠慮なく持ち込んでくることは、著者たちの姿勢をよく反映していると言えるだろう。科学論文は、仮説を神話として信じさせるために、無味乾燥とした真理然とした構成を取っているわけではなく、他の研究者が追試を行うことを想定しているために、「私ではない」主体が軸となっているのである。「神話を不滅にする」などという意図があると指摘されれば、どんな科学者でも笑い出すに違いない。

ヴェーゲナーの大陸移動説が受容されるまでに40年を要したことについて、著者たちは「明確で議論の余地のない証拠が提出されてから」受容されたという正しい認識を有しているにも関わらず、最後のところでは「社会的、専門的な立場が、しばしば新しい考えを受け入れることに影響を及ぼす」という結論に到達してしまう。即ち、ヴェーゲナーの説を当時の科学者が最初に退けたのは「社会的な」理由であると結論してしまっている。科学者が超保守的であるのは、現時点で受け入れられている理論(仮説)が数々の検証に耐えてきたことを知っているからである。頑迷であることが理由で反対しているケースは少ない。斬新な仮説が受容されるためには、従来の仮説の不備を立証し、新たな仮説の優位性を示すことが欠かせないのである。新たな仮説が受容されるために必要な期間は、頑固な保守的科学者が死ぬまでの時間ではなく、大半の科学者が同意するに足る十分な実験的根拠が得られるまでの時間なのである。科学者の活動の中に欺瞞があるからといって、科学研究の営みの本質に欺瞞があるわけではない。著者は現実が理念と一致していないことをもとに、「科学が理性とレトリックという両翼で飛んでいる」という結論で第7章を閉じているが、科学というツールを利用する人間がレトリックを弄し、欺瞞に満ちていることと、科学研究の営みそのものとを混同していると言えるだろう。

次に第10章であるが、この章の殆どの記述は病的科学と言える事例を取り上げている。取り上げられている人物はいずれも、科学をツールとして適切に使用する訓練を受けていないことが明らかであり、あるものは詐欺師で、あるものは扇動家である。こうした事例について特に区別をせず本書で科学者の例としていることについては大きな違和感を持たざるを得ない。訓練された科学者の条件の一つは、出来る限り先入観を排し、得られた知見をフラットに評価することである。

本書はミスコンダクトの実例集としては興味深く、人間としての科学者像の描写は、どうすれば科学者の欺瞞を小さくできるかという課題には有効である。一方で、著者たちの狙いはもしかするとクーンやファイヤーアーベンドの科学哲学の議論について、実例をもって補強することであったかもしれない。美術や文学、科学により達成された文明は、いずれも人間の知的活動として並列に議論しても良いだろうが、科学というツールを、美術や文学の評価(評論)と並列において相対化することには大きな危険が潜んでいる。自然科学の大半の分野は、実験的な仮説の検証を通じて、自然を近似することを目指しており、そこには明瞭な方向性がある。

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