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zoom RSS 「木を見る西洋人 森を見る東洋人 思考の違いはいかにして生まれるか」リチャード・E・ニスベット

<<   作成日時 : 2014/06/07 23:50   >>

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自然科学を研究し、日々西洋人と論文や研究成果をめぐり議論する東洋人にとって本書が取り上げるテーマは極めて身近なものであろう。要素還元的な自然科学の手続きは西洋人にとってはごく自然な思考の方向性であるが、一方で東洋人にとっては一定のエネルギーを注ぐ必要のある意識的な作業である。東洋人の研究スタイルの中には、色々トライしてみて、全体像から仮説を導き、これを検証するというものがあるが、これは西洋人には理解が困難なやり方だろう。遠回りに見えることもあるだろうし、場合によっては頭が悪いと見なされる可能性すらある。西洋においても東洋思想の研究は行われてきたが、十分に関心をもたれてきたとはいえず、ユングのように知識人の中でもオカルトと見なされているような事例もある。本書で取り上げられているような、思考のアプローチとして東洋と西洋を比較するという研究が近年クローズアップされているのは、西洋人的な思考法の弊害や限界が目に見える形で表面化してきたからかもしれない。

西洋人は、日常生活への論理の導入に対して抵抗が少なく、結論のもっともらしさに影響されないということが実験的に示唆されているが、東洋人がContext-basedなものの考え方をすることを踏まえるとその相違は分かりやすい。証券市場の超高速度取引とか、サブプライムローンとか、ノーベル賞級の天才が論理的に考えたことかもしれないが、東洋人からすればいくら論理が正しくても到底受け入れられるような内容ではない。こうした詐欺的に見える仕組みがすんなり許容されるところなどは、西洋東洋の違いで説明できるかもしれない。

また、アメリカ人において何かが矛盾しているときに、矛盾していないとき以上にそれを信用するという傾向があるという指摘は興味深い。アメリカ人は人生を通じて常に反論を生み出すスキルを磨いているがために、自分が信じている命題に疑問が投げかけられても容易に却下できるという説明がなされている。アメリカ人が査読をする例で、まさにこの事例に当たることは生命科学研究者であれば誰しも遭遇することではないだろうか。彼らとの議論はときに極めて不毛で、完璧に仮説を打ち砕くような強い証拠を提示しないか限りはいくらでも屁理屈のような議論が続く。一旦俯瞰的立場に立てば、自らの理論が既に破綻しているわけであるが、そういうこととはお構いなしに(そういう観点は持たないために)局地戦を続ける。東洋人になるとそれが自然にできる人はかなり稀であるため、どうしても根負けしてしまう。

本書では、論理の暴走ともいえる状況をコントロールするための知恵として、ロールズの「反省的均衡」という考え方が評価されている点も大変興味深い。これからの世界で求められるのは、精密な論理性を備えると同時に、自在に観点を変えられる俯瞰的な視野をもつ人材だとういうことではないだろうか。そこに必要なのは東洋、西洋、どちらかということではなく、どちらの思考も自在に使える能力である。東洋人は西洋文明の波をかぶっているので、そういう意味では既に一歩リードしているという見方が成り立つが、本書のような議論が世界で受け入れられるまでにはまだまだ時間がかかることが予想される。

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