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zoom RSS 「東大理系教授が考える道徳のメカニズム」鄭 雄一

<<   作成日時 : 2013/08/14 00:22   >>

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タイトルは出版社のアイデアなのかもしれないが、人文系の学者への配慮が逆効果をあげているようで、むしろ目を引くことになっている。著者は東京大学医学部出身で研究の展開により現在のポジションにいらっしゃるようなので、一般の方が「理系教授」として思い浮かべる人物像とはあるいは異なっているような気もする。本書は「人殺しはどうしていけないのか」という古くから取り上げられてきた哲学的な問いについて、自らの子どもたちを相手に分かりやすく議論するという内容である。理系らしさというのは議論の展開の方法に特に表れているが、同じ領域にいる理系の読者にとっては、それほど違和感はないだろう。結論についても同様で、理系だからと言って取り分け突飛な解釈が飛び出すわけではない。個人的には後半に議論される「仲間と同じように考え、行動する」をどのように人類全体の調和の問題として実現していくのか、宗教というマジックが消滅しつつある現代において、教育レベルの相違や情報格差、生活環境の違いをどう埋めていくのかという点に関心をもったが、これについては続編を期待したい。

本書のメインの主張ではないが、個人的に印象に残った箇所は、「抽象的でわかりにくいことばを使いつつ、しかもわかりにくい説明しかできなかったら、それは本質をつかんでいないからだ」という著者の言葉である。理系では論文は可能な限り簡潔で精確なものが求められるが、人文系では長ければ長いほどありがたがられるという冗談のような話がある。ポストモダンと呼ばれる哲学の領域は人気も高いが一方で無意味な言葉遊びという批判も強い。「知の欺瞞」のソーカルが指摘したことは、まさに人文系の分野でしばしば見られる「抽象的でわかりにくいことばを使いつつ、しかもわかりにくい説明しかできない」例ではないだろうか。若く能力のある学生が衒学的で生産性のない議論のための議論に陥ることは時間の無駄である。また、有名な哲学者の一部がTwitterのような短文で議論すると途端に幼稚で低次元の発言に陥ってしまうのは、「本質をつかんでいない」表れかもしれない。本書で提示されるような分かりやすい議論に対して、分かりやすい反論、分かりやすい修正案が出されるというプロセスの中から多くの人が共有できるプリンシプルが導き出されるのではないだろうか。

関連:
なぜ科学を語ってすれ違うのか‐ソーカル事件を超えて」ジェームズ・ロバート・ブラウン

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
昨日は失礼いたしました。
あの謎かけの意図は、インパクトをもって「語の多義性」「意味の揺らぎ」を想起していただくことです。
成功しておりますでしょうか。

文系畑から理系の営みを眺めるにつけ、最も羨ましかったことは、用語の定義が厳密に定まっていることです。
私の専攻は日本史学でしたが、「語の意味」が明瞭でないことと、そのために不毛の議論が起こることは、実に切実な問題でした。
場合によっては「ある語の意味」への批判・考察で、専門書が一冊書けてしまいます。
私の指導教官は「国家神道」という語についてこれをした人でした(山口輝臣『明治国家と宗教』)。
いわば山口氏は「国家神道論は、学問的意味のない言葉遊びである」ことを論じ、「国家神道研究」という分野を消し去ったのです。
議論の際、用いる「語の意味」の詳細な検討が、前提として要請されていることをおわかりいただけるでしょうか。
この前提部分で下手を打つと、自らの議論が根本から無意味なものになってしまかねません。
死活問題なので、いきおい思考の癖になります。
そしてそれは、「語の意味」に疑問を呈することが、問題提起の手段として成り立ちうるということです。

このことによる弊害はご存じでしょう。
私自身、「語の定義」にいちゃもんをつけることが自己目的化していた節もあり、赤面の至りです。
ただ、いちゃもんもつけてみなければ言葉遊びに終わるか問題提起となるかなかなかわからないところはあります。

要するに、言葉遊びを生みやすい手続きになっているのです。
ちなみに、文系学者もまた、一般向けにわかりやすく書いた書籍へ非生産的な「つっこみ」を入れてくる手合いは疎んじるものですよ。
我々に「冗長な文章をありがたがる」意識などはないつもりです。
外側からはそのように見えていること、少しショックでした。
父は司法書士
2013/09/03 02:33
まず「冗長な文章をありがたがる」の件ですが、大学の教養課程(最近は大学によりあり方は様々ですが)ではしばしばレポートの要件として明瞭な相違が見られます。理系だとA4が1枚以内とか簡潔さが要請されることが多いと思いますが、文系の場合は何千字以上とか何枚以上という条件が出されるケースをよく見ます。読む方の講師は、特に大人数の授業だと大変だろうなあと思います。また、「要約」のない論文が存在することも驚きでした。今や状況は変化しているのかもしれませんが、自然科学研究者が揶揄するのは、そういう記憶が残っているせいです。
satoshi8812
2013/09/04 08:30
言葉の定義の問題は重要なポイントですね。人文系研究者の方に説明していただいたことで印象的なことがあります。それは、ご指摘いただいたように、一つの言葉について一冊の本が書けるような研究の蓄積があり、研究者はそれらをふまえて議論しているということです。ですから、私がふだん使っている言葉であってもそこには私の知らない歴史があるというお話です。人文科学では、そうした多義的、重層的な言葉を使って議論しているということでした。なるほど、そういうことであれば、人文科学者が言葉の使い方に細かな注文を出してきたり、誰がどういうことを主張していたという歴史に拘ることも理解できるように思います。

一方で、百科事典的な膨大な蓄積を背景にしてしか議論が成立しないというのでは、先がないのでは?と感じることも事実です。人間が自分の頭から自由に出し入れできる知識の量は無限ではありません。別の記事で話題にしましたが、過去の哲学者の議論を知らないことや、解釈が妥当でないことについて、一つ一つ批判していくなどということは、なかなか多くの人の理解を得ることはできないのではないでしょうか。「誰が」ではなく要するに「どんな」議論があったのかが知りたいというのが自然科学者の欲求だと思います。

もちろん、如何なる学問分野でも要約ができないと価値がないという意見ではないのですが、このあたりの認識の相違が相互理解の上での障害の一つではないかと思います。
satoshi8812
2013/09/04 08:31
私がコメントしたことは、すでによりきちんとした方から説明を受けていらしたようで、たいへん失礼いたしました。

教養課程におけるレポートの要件(字数)に「長い論文をありがたがる」という印象を持たれたのですね。私は 卒論→修論→博論、、と要求される字数が増えていくことがそのような印象を与えているものと想像していました。
根は同じ問題かと思います。
論文の字数が増すのは、ご推察の通り、研究テーマが大きくなるほど必要な知識量が増え、踏まえておくべき先行研究も増えるからです。そのため、議論を整理しコンパクトにまとめる力に関しても、課程を修了するごとに、字数に反して、よりハイレベルなものが要求されていくのが普通です。つまり、論文やレポートに関しては、要求される字数が少ないほど知識量とともに「簡潔にまとめる力」も低レベルで済むものだという認識が我々の前提にあるのです。
このあたりは文系と理系で、学生や教授の教養課程に対する姿勢の違いもあるかもしれません。文学部の教授には、レポートの要件を設定するに際して、低いハードルで勘弁してやろうという意識があるように感じました。
理系の場合はいかがでしょうか。

要約のない論文に関しては、私の専攻分野では許されないものでしたので事情がわかりません。私もそのような論文があると知った時には目をむいたものです。力不足で申し訳ありません
父は司法書士
2013/09/10 00:56
後段については、一般人を意識した議論の形について、文系の学者でもそれぞれ考え方が違うというところにおおもとの問題があるのではないかと思います。しかし確かに文系学者は、もちろん個人差が大きいのですが、専門外の人に議論を理解してもらおうという意識が理系の方より希薄かもしれません。学生に対するハードルの低さもここから来るものでしょう。彼らが重箱の隅をつつく背景には、そのような内向き志向があるのだと感じました。文系学界の「外」に向かってさえ、専門家の目線を意識したような議論と同様の形で問題を語ってしまうのは、「外」に対する議論のルールやノウハウの蓄積がないことによると思います。

まずは、「理系と文系とは感覚も考え方も異なるもの」「互いに理解することは難しい」という前提のもと、とにかく対話の場を数多く設けることが内向き志向を排するために必要なことではないでしょうか。
父は司法書士
2013/09/10 00:57
教養課程で文字数に下限があるのは、簡潔な要約ができない学生に向けてむしろハードルを下げているという意図なんですね。自然科学の論文は結論は一つの文章で表されるもので、それをサポートする実験結果を連ねるという形式が一般的だと思います。物理系だと(想像ですが)演繹的に議論が展開され、生物系だと結論をサポートする証拠が集められるという形式です。よって、結論に寄与しないパーツは割愛され、別の研究になります。人文系の研究の場合は、そのあたりの線引きもまた議論の対象というか、難しいのでしょうね。

専門外の方への配慮という意味では文理問わず、駄目な方は駄目という印象です。ただ、近年は説明責任という意味では自然科学系の研究者の方が厳しい立場におかれているかもしれません。本人はすぐに社会に役立つわけないだろうと思っていることでも、研究費申請の際にはいろいろ理屈をつけないといけませんので、それなりにみなさん工夫されています。

結論の部分についても同意いたします。私から付け足すことですが、やはりカリキュラムを抜本的に改革して科学的なリテラシーが広く身につけられるような中等、高等教育が望ましいと思います。文理の共通とする教養を豊かにする必要があります。解決すべき課題はたくさんありますが、成果も大きいはずです。
satoshi8812
2013/09/10 10:11

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