読書の記録

アクセスカウンタ

zoom RSS 「一緒にやらないか(財務省)」から官僚制度の限界を考える

<<   作成日時 : 2011/12/09 00:10   >>

面白い ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

東京大学法学部という学部卒業レベルの学生が就職し、組織内で(または出向先で)教育を受けることにより形成されるものが官僚システムである。見逃せない特徴は、東京大学法学部出身者が圧倒的に優位を占めるというモノカルチャーな組織と、人材育成が官僚組織の影響を色濃く受けた場で進められるという自家中毒的な仕組みである。最近では東京電力の上級社員や、原子力安全・保安院(保安院というと何か国民の安全を考えているような印象を受けるが、「産業活動の安全確保」がその使命である)、原子力安全委員会といった方向でも、東京大学卒業者の異常さが目につくようになってきている。

ここでは「一緒にやらないか」というタイトルの財務省の先輩からのメッセージを取り上げてみる。ネットではタイトルの面白み(わざとかどうかは不明であるが)で話題になっていたが、財務省が臆面もなくこうしたメッセージを公開しているというのは貴重な発見であった。

社会的責任を果たすだけでなく、自分を含めた社会のあり方を所与でなく対象として考えられる場、それが財務省だ。


最初の段落から飛ばしている。社会を構成するのではなく、社会を形作るのが財務省の官僚だという明確な定義である。社会が国際化し複雑なものとなった現代において、未だに財務省という官僚の集団が社会をグリップできるという時代錯誤な意識が臆面もなく語られている。

翻って今、財務省は国家運営の中枢を引き続き担っているが、制度改革の主宰者という新たな任務の色彩が強く感ぜられる。我々は民族生存、世界繁栄の闘いの 前衛にいるという実感だ。急変する流動的事態の下で危機的状況からの脱却を模索する、政策手段の進化、更には、社会観・パラダイム転換の苦悩は、困難では あるが、極めて知的付加価値の高いエキサイティングな過程である。

どこの厨二病だという文章であるが、自らは改革の対象ではなく、我こそは「制度改革の主宰者」と言って憚らない。何故、財務省の官僚は改革の対象ではないのだろうか。何度も本ブログで指摘しているように、これからの政策決定者はジェネラリストの集団では務まらない。トップはジェネラリストとしての訓練を積んだ人材が必要であるが、その下部にはジェネラリストは不要であり、各分野の専門家からトップレベルの人材をリクルートしてくる必要があるだろう。また、ジェネラリスト的要素をもつトップの人材は、法学部のような文系からではなく、理系の人材が広い分野を学ぶという人材育成体制が望ましい。なぜなら、科学的思考の訓練を受けた人材でなければ、これからますます重要となる科学的知見に基づく意志決定ができないからである。今後必要な意志決定は、多くの人が納得する(あるいは騙されてしまう)ことを優先した施策ではなく、限られたリソースを有効に活かす、一定の根拠をもった施策であり、現在の多くの文系の学部ではそうした教育は不十分である。今後必要なのは文章ではなく、実効性のある施策の中身である。

また、日本の世界に及ぼす影響は、日本経済の発展と世界の相互依存の進展の結果、これまで我が国が経験したことのない程、遥かに大きく、財務省の政策レバ レッジは極大化している。国際経済の運営、国際秩序の形成に深くかかわり、我々のイニシアティヴで世界を動かすことが日常化してきている。更に、民主主義 の進化に伴い、利益構造の多元化(の顕在化)、説明責任の増大を含め、政策調整・意思決定コストが高まり、我々にコンセンサス形成努力において新たなチャ レンジを与えている。

要約するとどうなるだろうか。何か意味のある内容が見つかるだろうか。根拠となる事実は提示されず、妄想のような表現が続く。「日本」を「アメリカ」に置き換えたとしても滑稽さはそれほど減じないだろう。

勿論、哲人王に全く及び得ない我々の判断は、後世の歴史の審判を仰ぐより他ない。我々が常に正しいと信じるのは傲慢である以上に愚劣である。後知恵だが、失敗もあったと思う。理性的な判断をするには、気負い過ぎないことも肝要である。
 しかし、他方、財務省ほど、情報と政策手段(予算、税制、財投、為替等々)が集中している組織が他にあろうか。また、余りに広く、時に抽象的な国益を背 負っているため、いわば、財務省は国の縮図であり、省益という概念自体、惹起し難い。従って、国家、世界の視座でものを考えうる比較優位と、そうすべき義 務が自ずと付着するのである。君も入ってみれば、短期的な社益、省益に拘泥しない議論の正統性、それに勇気付けられた自由闊達な精神風土に驚くであろう。

「後知恵だが」という部分に、常に最善を尽くしてきたという自負が伺える。この態度が傲慢でなくして、何が傲慢だろうか。過去に失敗があったことを認識しているわけではない(「失敗があった」ではなく「あったと思う」)ことが隅々からにじみ出ている。無謬の集団が財務省である。「省益に拘泥しない」組織は様々な分野に広く天下り先を確保している。「自由闊達な精神風土」だから、内部からの批判もなくこの文章が掲載されているのだろうか。

勿論、権力行政には限界のある時代、民間の側にもインセンティヴが存在する。一回数兆円の市場介入、約90兆円の外貨準備の運 用者、そして、幹部の発言一つで市場を左右する稀なる組織の指令塔、いわば、為替マーケットにおける世界最大のプレイヤーとして、市場と日々、対話する中 での自然な営為なのである。為替市場は、経済統計、社会事象から戦争まで全世界の森羅万象が反映される情報社会、その中で、我々が、最も世界中の情報にア クセスがあり、それらに敏感であり、かつ発信力、影響力のある存在ではないか、と自負している。

最後の一文は端的に事実誤認と言えるだろう。全体的に大げさな修辞であるが、こんな認識で国家運営に携わっていて大丈夫なのだろうか。あるいは、書いている内に気分が盛りあがって筆がすべったのだろうか。

また、年金問題に見られるように、将来世代の利益が代議制を通じては代表され難いこともある。そこで、我々が客観的な分析に基づいて政策主張し、合意形成 に向けて説得に努めなくてはならない場面が多々出てくる。そして、実は多くの場合、その方向で成就する。勿論、消費税のように10年かかることもあるが。

「そして、実は多くの場合、その方向で成就する。勿論、消費税のように10年かかることもあるが。」この部分は特筆すべき正直さである。要するに選挙により選出された国会議員の影響は長続きするわけではない、国民の意思を体現すると考えられている国会議員ではなく、我々こそが政策を決定するのだという強烈な自負と、一般の国民への軽蔑があからさまに伺える。こうした不用意なメッセージをホームページに書いてしまうと言う幼稚さに極めて大きな不安を感じる。

君は、今、この冊子を手にしている。それだけで、人類64億 の中で既に特別な立場にある。世界中の貧困を見たまえ。そこまで想像力が広がらなくても、君が享受してきた生活と教育は、国内でも遥かに平均以上だ。別 に、君が、また、我々が偉いと言っていない。しかし、君には、その能力で社会に貢献する義務、ノーブレス・オブリージュがある。その義務を果たし、かつ、 その努力の過程を誇らしく楽しむ権利もまた、君の目の前にある。君と議論できる日を待っている。

結論の部分は大変立派な決意表明であり、是非頑張っていただきたいものであるが、前段の文章を読むと不安で仕方がない。「ノーブレス・オブリージュ」が間違った方向で発揮されないか大変心配である。こうした「厨二病」的なメンタリティが日本を危機的状況に追い込んでいるのではないだろうか。全体的に本当に子どもっぽい印象を受ける。欧米の官僚はもっと強かで成熟しているのではないだろうか。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
面白い

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「一緒にやらないか(財務省)」から官僚制度の限界を考える 読書の記録/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる