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zoom RSS 「もうダマされないための「科学」講義」菊池誠、松永和紀、伊勢田哲治、平川秀幸、飯田泰之SYNODOS

<<   作成日時 : 2011/11/27 23:59   >>

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SYNODOS は「アカデミック・ジャーナリズム」を旗印とする知の交流スペースという試みであり、ネットでの活動以外にもセミナーやレクチャーを開催する組織であり、「専門知」に裏打ちされた言論を発信することを目標としている。ともすれば誰も読むことのない紀要に論文を発表して業績として安穏としている大学人と、ひたすら露出量が増えることを目標に質の低い議論をばらまく知識人が相当な数を占めることを考慮すると、現代社会に関わっていこうとする姿勢は貴重なものといえる。一方で、後者と同様の単なる売名という批判や嫉妬、無視などがあることもおおよそ容易に想像できるところであり、こうした活動が定着し、一定の評価を受けるまでにはまだまだ困難もあるだろう。定期的に情報を発信する中で、寄稿者の水準を維持することもなかなか困難な課題だろう。

所謂文系の学者が中心の組織において、優れた論者としての自然科学者を見つけることは難しいことであり、「科学哲学」的な分野を糸口にしてきたことは自然な流れのように思われる。「質量保存の法則を理解するために当時のフランス語で書かれたラボアジェの原著を読まないでどうして議論できるのか」という疑問を口にするような学者と、自然科学者との間を接続することは相当な困難であり、現代社会における政策決定において不可欠の要素である「科学」をSYNODOS的なまな板にどのように載せるかという課題は大きい。第一線の自然科学者が、政策決定の議論で適切な意見を述べられるかというと、むしろそこまで社会に開かれた見識を持っている例は少なそうである。一方で、「科学側」から社会に適切な形で意見を発信するためには、社会において「科学」がどのように受容されているのかを認識している必要があり、それが十分できている科学者というとその数は限られているだろう。著者の一人である菊池誠さんは「ニセ科学」をテーマに、「科学」とは無縁な様々な層を相手に早くから困難なコミュニケーションに取り組んできた自然科学者であり、同時に科学者としての業績もあるという珍しいケースである。科学者としての業績に強く拘る必要は本来ないのであるが、業績不足を理由に科学者コミュニティで冷遇されている自然科学者は、しばしば「反科学」的な態度に傾斜し、「自然科学側」で語るのではなく、文系的なコンテキストに迎合しがちである。福岡伸一の著書の姿勢の変遷を見ると、これは一種の迎合ではないかという印象をもつのは私だけではないだろう。もちろん福岡伸一に「科学側」で語る責任がないのは当然であるが、世の中の認識としては「自然科学側」からの発信と映っているだろう。一方、松永和紀さんのブログでの継続した情報発信は、一貫して一般の読者にも計算することや比較することの大事さを訴えており、科学者が読んで安心できる内容である。松永さんと比較すると、本書の付録を執筆している片瀬久美子さんの原稿は脇が甘いというか、科学側からの説明としては中途半端な印象を受ける。科学コミュニケーションについては、大事な部分は徹底的に、分かりやすく説明することが肝要であるが、些か説明が端折られているところや、自らの知識をもとにニセ科学的な活動を揶揄しているように見えるところが残念である。自然科学側からの寄稿者である菊池さんや松永さんとは経験の差が出ているように思う。Twitterの発言でもしばしば論議を巻き起こしているようであるが、相手の思考をくみ取りそれを考慮して説明するという姿勢が若干欠けているために、「科学的にはそれが正しいのですから、あなたは誤りです」と言わんばかりの姿勢があり、それがディスコミニケーションを生み出しているように思える。自然科学者が読めば何の違和感も感じさせられない付録記事であり、様々な事象を良くとりまとめているが、それぞれの活動の信奉者や好意的に見ている方からすれば、一方的なものの見方を押しつけられているように感じるかもしれない。

本書では人文系からの寄稿も読むことができる。伊勢田哲治さんはネットにおいても有名で、科学哲学に関する著作もあり、積極的に発言されている印象がある。本書では「モード2科学」というキーワードが登場する。いわゆる自然科学者がサイエンスと考えるものが「モード1」の科学であるが、モード2というのは応用、実践を目標とする科学であり、人文科学も含まれるかもしれないという。本書では環境保全に関する実例が話題になっているが、どうもしっくり理解できなかった。伊勢田さんは、伝統や経験に根ざす知やローカルな知が環境保全という問題解決に役立つという話から、モード2科学を説き起こしていく。しかしながら、経験知は知識が得られる過程がモード1科学に根ざしていないだけで、同様の結論はモード1科学から得られるものなのではないだろうか。経験知だから科学的でないという意味ではないだろうが、どうもそのようなニュアンスを感じてしまう。環境保全は複合した問題であり、シンプルなモード1科学一種類では答えはでないだろうが、モード1科学の成果をどのようなウェイトで組み合わせるか(この問題自身もモード1科学で取り扱うことは可能である)によって最適な解答を得ることは可能だろう。環境保全に取り組むためのアプローチが、人文科学と同じカテゴリーであるとはとても思えない。最近、トランスサイエンス(科学に問うことはできるが、科学だけでは答えることができない課題)という言葉もよく使われるようになってきたが、これも「科学に問う」部分はぎりぎりまで厳密に(自然科学的なアプローチで)最適解を追い求めるべきであり、その上で科学以外の知恵も取り込んだ解答を生み出すべきなのではないだろうか。自然科学は実験での検証一辺倒ではないことは、数学の証明や思考実験などを考えれば理解できるが、ギボンズが人文科学に「ディシプリンがない」というのは全くその通りで、「ディシプリン」がないことが一貫した姿勢で問題解決にあたることを妨げているように思う。

平川秀幸さんは原発事故以後の寄稿であるが、職位が「コミュニケーションデザインセンター」にも関わらず、一貫して外部的な評論に終始している点に違和感があった。もっと具体的なデザインを提案することが重要なのではないだろうか。科学コミュニケーションの不在が様々なマイナスをもたらしている現在において必要なのは評論や分析ではなく実践なのではないだろうか。

追記(11/29):
片瀬さんの記事に対する違和感を丁寧に論じているブログを発見した。ニセ科学的なものを信奉している論者との対話には大変なエネルギーが必要であり、うんざりさせられるようなことも多いと思われるが、自然科学のディシプリンを常に忘れないよう心がけなければ、自然科学者の意見もまた同レベルの水掛け論として片付けられてしまうかもしれない。同ブログは片瀬さんの姿勢について意見を述べるために設置されたようであるが、科学者の姿勢に関する重要な指摘が多く含まれている。

一方が信仰と言っても差し支えないような議論を堂々としているときに、科学者側だけが実験や論証を丁寧に続けなければいけないのは苦しい状況であるが、それこそが科学が社会の中に受容されてきた過程そのものであり、他に安易な方法はない。私は科学のプロですという権威主義的な姿勢では、ニセ科学的なものに対抗することは難しい。当該ブログには片瀬さんの反論コメントもついているが、ここまで丁寧に説明を受けてなおかつ何一つ撤回、修正出来ない様子であるのは、科学者的には残念な態度だと思う。

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インチキ科学対策ワクチン:もうダマされないための「科学」講義
もうダマされないための「科学」講義 (光文社新書)作者: 菊池 誠出版社/メーカー: 光文社発売日: 2011/09/16メディア: 新書 世の中にはインチキ科学が溢れている。 ちょっと有名なだけでも、ゲルマニウム温浴だとか、遺伝子組み換え食品の恐怖だとか。道徳系では、ゲーム脳の恐怖だとか、水からの伝言なんていうのもある。 ところが、マイナスイオン家電が流行った際に、マスコミは何の叫弾もしなかったように、日本のマスコミはインチキ科学に対して非常に頼りない。 むしろ、インチキ科学に加担する... ...続きを見る
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2011/12/18 22:36

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