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zoom RSS 「科学的とはどういう意味か」森博嗣

<<   作成日時 : 2011/07/18 23:17   >>

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Bad Scienceにおける著者のゴールドエイカーにも見られた傾向であるが、「科学」教育を受けた論者の現代社会に対する提言は、近年ますます直接的で、厳しさを増しているように思う。マスコミ的に言えば「現代社会の矛盾」ということになるのだろうが、現代社会の抱える問題点のかなりの部分は「科学」というアプローチを適切に採用すれば、今よりはよい対処ができるはずである。それにも関わらず、社会をリードするべき人たちの多くは「科学」を軽視、あるいは敵視している。社会に対していくばくかでも関心をもち、世の中を良くしたいと考えている科学者にとっては、現代は耐え難い状況であり、そうした苛立ちが本書やBad Scienceの背景にはある。

従来の科学者は、「私は自然科学の真理を探究することに主たる関心があります。人間が形作る社会の諸問題については、それらを専門に探求されている人文科学のみなさまに任せましょう。」という姿勢のもと、政策や社会問題に関して積極的な発言をすることは少なかったように思う。また、よく分からない分野については、専門家を尊重するという姿勢も強く、社会や政治については人文科学の学者やあるいは官僚に一定の敬意を払ってきたように思う。例えば、大学では文理の学者が物事を決めていく過程である会議で、理系の発言者によるデータをもとにした論理的な主張が、同じ土俵で議論されることなく、何となく却下されるなどということは日常茶飯であった。詳細な議事録を読めば、呆れるほど内容のない話し合いのもと、最終的には大御所的な教授の意見が通るということが決して珍しくない。こういう場合、多くの理系の学者は、自分の主張を理路整然と行った後の議論については比較的淡泊である。あるいは、「科学」的なアプローチができない人間とは議論ができないという諦念を持つことが多いように思われる。

文系の「偉い人」が「科学」を軽視するのは、「この優秀な自分が理解できなかったようなものに、大した価値はないだろう」という認識があることについては、理系の科学者の多くがうすうす気づきつつも、「こんなことを発言してはおしまいだ」というブレーキを自らにかけてきたように思われる。しかしながら、このままでは本当に日本は(あるいは世界は)酷いことになってしまうという危機感が、こうしたタブーを破るきっかけとなったのではないだろうか。政治家、官僚、大企業の経営者、マスコミといった世の中を動かす人たちの殆どが、「科学」のアプローチを理解できないという状況は、巫女のお告げのもと国家が運営されていた原始国家と選ぶところがない。原始国家と異なるのは、原発や核兵器のように国家がもつツールが巨大で、人類全体を滅ぼすことすら可能な点である。本書のような動きが表立って出てきたのは、民主主義社会の中で、多くの科学者が「これ以上巻き添えになるのはごめんだ」という意識を持ち始めているためではないだろうか。

復興構想会議や民主党が主導する議論の多くは非公開、あるいはまともな議事録が残されない(構想会議はいずれは出すという話であるが、既に要旨すらスケジュール通り公開されていない)。議事録がないという特性は、参加者が「検証」作業を否定し、議論を積み重ねるという姿勢を持とうとしていないこと、そしてそれが悪であることを内心は認めているということを明瞭に示している。

本書は相当率直な姿勢で表明された理系からの意思表示といって良いだろう。回りくどい表現は少なく、分かりやすい説明であるが、上述の「偉い人」の多くはまともにとりあうことはないだろう。「科学」の手続きは、人類が個々の思惑を超えたところで将来を予測し、意志決定を行う方法の中では、相当優れた方法である。しかし、それを認めようとしない層には今後も声は届かない。それはカルト教団の信者と同様である。

「科学」のアプローチを学べば、本書にあるように、それが如何に謙虚で堅実でオープンな手法であるかを認識することができる(ここでもしばしば「傲慢な」科学者や「御用学者」を取り上げて批判が行われるが、「科学」はアプローチであり、属人的な性質を持たないことを理解すれば、人格論的な議論は意味がないことが分かる。「御用学者」は「科学」的アプローチを適切に実施できない学者の一部のことである)。本書ではあまり強調されていないが、次世代の教育をどうするかもまた、「科学」を社会で活かす上では重要なポイントではないだろうか。既にできあがった人たちについては、その信念に影響を与えることは極めて困難である。


付記:本書の末尾に「健康に関しては自分が基準」という項があるが、「科学」に対してこれだけ見識のある著者であっても、医学については偏見を持っており、また適切な知識のアップデートが行われていない。このことこそが、広く議論し、データをもとに状況の理解を深めることによって、適切な方針を見つけるという「科学」の営みの重要性を示している。科学者は「科学」について万能なのではなく、「やり方」を知っているだけなのである。医学についても、適切な情報が与えられ、十分な議論が尽くされることがあれば、著者はこの箇所についての意見を改めるだろう(あるいはそうでないかもしれないが、医学に対する理解は深まり、これまでよりは慎重な立場にたつことになるだろう)。

ちなみに本書では、「自分の観測が最も正しい」「自分の判断こそ科学的だと思って良い」という意見が述べられているが、著者も注記するように「早期には自覚できないトラブルもある」ので、「自分の判断が科学的」というのは殆どの人にとっては適切な助言ではない。採血により判明する「自覚できないトラブル」というメリットは、採血というマイナスを補ってあまりあるだろう。また、「薬品の多くは、なぜそれが効くのかという理屈がわかっていない。」というのも大げさな表現である。漢方薬はそうかもしれないが、むしろ薬品の多くは概ね効く理屈が推察されている。ただ、実際の効果がその理屈で全て説明できるのかというと、これは多くの自然科学と同様に近似作業が継続されているところである。現代医学は著者が考えているよりは遙かに「科学」的に進展している。

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【理系/文系の垣根を越えて】科学的とはどういう意味か
科学の発展とは、そういった「神」の支配からの「卒業」だったのだ。(130ページ) ...続きを見る
ぱふぅ家のサイバー小物
2013/12/12 20:56

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現代医学は「科学的に進展している」というのは大きな間違いです。すべての科学は最終的に物理法則に帰着するのです。(物理主義的科学観)現在では、化学は物理学の一部門です。それは、大部分の病気は物理的に治癒可能であることを意味します。現代医学は生命に物理法則を認めず、物理療法が現代医学をはるかに上回ることを理解できていない。そのために、諸科学の基礎である物理学によって正しく検証されていない現代医学と疑似科学的医療との論争が終結するはずもない。統計学や二重盲検法なんてその場しのぎの検証法にすぎない。物理療法の有効性とその原理が公開されたとき、治療学が理論的に完結し、パラダイム転換したことを知ることになるでしょう。
protomed69
2012/01/07 13:13

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