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zoom RSS 「科学技術イノベーション政策のための科学」は何を目指しているのか

<<   作成日時 : 2011/07/09 20:29   >>

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以前の記事で「政策のための科学」が必要という戦略的想像研究推進事業における考え方に疑問を呈した。「政策のための」科学ではなく、科学において採用されているアプローチを政策決定に活用することが大事という主旨で、具体的には、「政策のための科学」などというよく判らない代物を新たに創り出すのではなく、科学の手法に長けた人材を政策決定に活用することが重要というのが私の考えである。そもそも科学で得られた知識を社会に活用するためのプロセスを「科学」として新たに打ち立てようなどという試みは国際的にも例がないが、そうした野心的な(無謀な?)取り組みであることについての自覚もあまりないのではないだろうか。

7月8日から正式に「科学技術イノベーション政策のための科学」の研究提案募集が開始されている。具体的にどんな方針でこの事業が進むのだろうか。社会技術研究開発センターのホームページで募集要項を得ることができる。

プログラム総括は東京大学の法学政治学研究科教授で、何と「会議の政治学」の著者であった。経歴や「会議の政治学」を読む限り、プログラム総括自身は「科学」において採用されるアプローチについてどこまで造詣が深いかはよく判らない。自然科学の研究者ではないことは確かである。こうしたプログラムの総括に任命されるのであるから、文理両面にわたり視野が広い学者という評価を受けているのかもしれないが、この課題に直接関わる著書というのはなさそうである。

募集要項には冒頭に「プログラム総括の考え方」という項目があり、応募者はこれを熟読して募集することになる。プログラムの方針が示されており、如何に要請にフィットした提案が出せるかが採択の鍵を握っている。以下、まとまりがないが、違和感を感じたところをピックアップしてみる。

・「厳しい財政の下で多額の研究開発費が投入されてきたにもかかわらず、科学技術イノベーションに結びついていない」ことが前提になっている。科学技術イノベーションというのは具体的にはどんな事例を指すのだろうか。アメリカに比べると科学技術への投資額が日本では極めて低いことはしばしば指摘されるが、その上効率が悪いということは、日本の科学はアメリカと比較してゴミのような存在という認識なのだろうか。何か比較事例がないと、前提が本当に妥当かどうかの判断が難しい。そういう意見の人はいるだろうが、なにぶん「科学」を打ち立てるわけなので、根拠のない印象が前提ではよくないのではないだろうか。

・「科学技術研究の成果を、新しい経済的、社会的、公共的な価値の創造と社会システムの変革につなげる仕組みや過程に問題があるといえるのではないでしょうか」。この点も解釈が難しいが、素晴らしい科学技術の成果がプロセスの不備のおかげで社会の変革にうまく結びつかなかった事例とはどんなものがあるのだろうか。近年の例だと、発光ダイオードの発明などは素晴らしい成果であるが、個人的にプロセスに問題があったようには思えない。そもそも大したことのない研究成果であれば、いくらプロセスを工夫しても社会の変革には結びつかない。科学の成果の価値を認識できる研究者が政策プロセスに包含されていない状態では、国家主導で何をしようがうまくいくようには思えない。

・「科学技術イノベーション政策そのものを科学的に形成する手法を開発することが必要なのです。」科学で得られた成果を、社会に還元するプロセスを科学的に研究するという意味だろうか。科学の手続きでは、試行錯誤や対照との比較が重要視されるが、そもそも社会変革をもたらすような科学の発見は極めて稀であり、さらに国内に限るわけであるから、研究対象が限られてしまっている。「科学の成果→社会」というプロセスは、本当に科学的手法で解析が可能な対象と言えるのだろうか。

・後半に研究に対する要件が述べられている。第四は「当然のことですが、政策のための科学をめざしていることから、科学の一つとして、主張は、エビデンスに基づき、明確な論理に基づいて構成されていなければなりません。」とある。ここはプログラム総括が「科学」をどのように理解しているかがよく伺える文章であり、興味深い。文系・理系の不毛な議論のおおもとには「科学」という言葉に対する不一致があり、自然科学者が「科学」と認識するものを理解するためには、やはり自然科学研究に一定期間携わることが必要ではないかとすら感じることがある(もちろん「科学」の手続きを理解できていない自称科学者は存在する)。
 まず、本課題におけるエビデンスとはどんなものを指すのだろう。過去の事例研究ではないと明言されているので、一体何を指しているのか不明である。どういうデータがあればエビデンスと言えるのか。また、「明確な論理に基づいて」いるものが「科学」であると述べられているが、論理が明確でも間違っている科学はこれまでもたくさんあった。科学の営みでは、観察した結果をもとに立てた仮説がどの程度自然現象を説明しうるかという実証、近似を延々と繰り返す必要がある。仮説に論理は性は求められるものの、「明確な論理」があれば「科学」的というのは些か浅薄であり、「科学」のプロセスでは仮説により実際の現象が説明、予見できることが重要である。そういう意味でも、「基礎研究の成果→社会の改革」というプロセスの試行錯誤を科学の手法で実施するのは大変難しいのではないか。そもそも「社会にインパクトを与えるような成果」が稀で、かつ個々の事例はそれぞれの事情のもと独立しているので、相互の比較や、検証が難しい。こんなところで「科学」らしさを追い求めるくらいならば、「科学」のトレーニングを受けた人材を政策決定に集中的に投入する方が効果的ではないだろうか。

・第五は人材育成の重要性が述べられている。しかし、「科学技術イノベーション政策の立案実施を担う人材」などという特殊な層を別途育成するよりは、官僚組織や政策立案の研究所、シンクタンクに理系の博士を一定数採用する方がよほど早期に狙いが達成できるのではないだろうか。総合大学の学部長会議では日夜繰り広げられている光景であるが、課題をどのように具体的に処理していくかという実際的なプランニングは圧倒的に理系の研究者が得意である。議論のための議論や、課題の大小関係を無視した意見、自らの経験談の開陳など、理系の研究者が辟易するところである。

今回のプロジェクトで危惧する点は、上述のような懸念がある中、本事業にどの程度優れた自然科学者が参加するのだろうかという問題である。「科学的」という言葉を駆使して(もっともらしい報告書や答申を書くことは文系研究者の最も得意とするところである)、「科学」のアプローチを理解しない提案者による研究が採択され、その結果やっぱり役に立たないという評価を受けることが大いに心配される。しかける官僚は文系、総括も文系、評価者も文系、こんなことで本当に「科学」を政策に活かせるのだろうか、あるいは「科学」は政策決定に役に立たないということをアピールしたい誰かが裏で画策しているのだろうか。

本格的な自然科学研究に一定期間以上従事し、トレーニングを積んだ人材の中で、熾烈なPI競争に敗れたものから、国家のために尽力したいという人材を選抜し、中央官庁で再教育後、重用するだけでも世の中は大きく変わるのではないだろうか。A4一杯にセンスの悪い配色で、様々な取り組みに相互に矢印がひかれた、まとまりのないパワーポイント資料は、最近の中央官庁のお得意技の一つであるが、これを見る度暗澹とした気持ちにさせられる。本当に何かを変えようとするプロジェクトに、そんなにたくさんの観点や目標、計画が盛り込まれて本当に達成できると考えているのか大変疑問である。計画書と実際の達成内容は大きくかけ離れており、それを埋めているのは巧みな文章、というお寒い状態はそろそろ変えなければいけないのではないだろうか。

「科学」のアプローチを政策決定に活かすという考え方は大変重要で、今後日本が浮上するためには避けて通ることはできない。それがこのようなお粗末なプロジェクトに結実している点に危機感を感じる。

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