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zoom RSS 「世界は分けてもわからない」福岡伸一

<<   作成日時 : 2009/10/06 23:51   >>

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著作に対する批判をしばしば述べながらも、こうして再び福岡伸一の著作を購入して読むということは、やはり私がなにがしかの関心を抱いているからだろう。科学者としての態度を維持しつつ、一般の読者に読ませる文章というものはどんなものだろうかという個人的な関心が、著者の取り組みに目を向けさせるのだろうと思う。著者を物差しにして科学者が書くものとはどうあるべきかを考えているのかもしれない。講談社現代新書のシリーズはどうもタイトルがあざといので反発したくなるのだが、おそらく出版社の方針で、著者としては連作科学エッセイのようなものを意図しており、タイトルに見られるような確固たるメッセージを打ち出す意志は弱いのかもしれない。そうはいってもタイトルは著者のホーリスティックな姿勢を反映しており、それほどかけ離れたものでもない。

序盤の数節を読むと著者はやはり科学者というよりは文学者、あるいは作家的な資質の持ち主であることがよく判る。視線についての思考実験は、外山滋比古の著作にしばしば見られる、科学者からすれば暇つぶしで何の役にも立たない随想で、本気で仮説を立てるのであればもう少し調査を進めてから考えるべき代物である。この辺りは、非科学者にとっては科学者と一緒に気の利いたことを考えてみたような気にさせられるのかも知れない(そうした体験に意味があるかは少しく疑問であるが、読書体験としては心地よいのかも知れない)。夜空の星座もどんどん観察の感度を上げれば星だらけになって何の絵も描けなくなると言う話も、いわゆる明るさの強度のスケールを不問にした話で、どこか読者をだましているような印象もある。ニュートン物理学と量子物理学の関係みたいなことを指しているのかもしれないが、物理については両者を統合して理解する試みは営々と続けられている。写真家から送られてきた「境界」をテーマとした写真についても、おそらく著者がふくらますことの出来る限界近くまで、話題として展開されていく(大変なサービス精神だと思う)。著者の想像力は非常に自由で、職業科学者の多くはついて行けないという印象を持つように思う。

本書で驚きを感じた点は、後半の主題が有名な生化学分野の捏造事件を取り上げているところである。捏造事件に顛末を詳細に描きながらも、当事者たちの描いた絵がある観点からみれば正解であり評価すべきところがあるという記述はなかなか首肯できないのであるが、それに続く部分については、ある意味では現在の生化学の一部の領域のジレンマをよく示している。即ち、細胞内の情報伝達は非常に複雑で、多数のプレイヤーが絡み合っているために、研究者がどこに注目するかで非常にフレキシブルにストーリーを組み立てることができるという問題である。これはシグナル伝達をテーマとする研究者であれば誰でも悩むところであり、相当高い評価を受ける学術誌に掲載された論文であっても、実は針のようなサイズのものを無理やり拡大して棒のように記述しているという例が見られる。大きな海を多くの研究者がルーペを手にしてのぞき回っては、論文を書き、時々その様子を海上から大家がまとめるという印象である。しかも、全体像を知るためには報告の数が多すぎて普通の研究者の手に負えない量であるため、総説から一旦漏れてしまった論文はなかなか浮かび上がらない。

そうは言うものの、著者の強調するような境地にまで後退することは、科学者であればごめん被りたいところだろう。著者は時間軸を含めて解析をすれば、原因と結果は絡み合い逆転し、「ほんとうの意味で因果関係と呼ぶべきものは存在しない」という断定を下してしまう。しかし、科学者であれば、幾多の介入実験(ある予測が成立するならば、人為的にある状態を作り出した場合もその仮説通りの結果が得られるということの確認)を行い、予測の正確性を高めるという作業を通じて、まさに因果関係のロジックの中で仕事をしていることに異論はないだろう。予測の精度を高めることを目指さない科学は、「科学」ではない。現象の予測ができるということそのものが、他の様々な思考スタイルと、科学とが区別される点である。世の中でしばしば見られる「科学」が特権的な位置にあるという攻撃の多くはどこか的外れで、「科学」というのは思想ではなく態度であるということが理解されていないように思われる。「科学」的態度を堅守することで人類は数多くの知識を得て、環境に能動的に接する能力を高めてきたのである。後書きで現実の著者もまた因果関係のロジックの中で研究を進めざるを得ないことが述懐されているが、ここまで要素還元主義を嫌う研究者がノックアウトマウスを作製しているというのも不思議な印象がある。意地悪ではなく、「動的平衡」に基づいた代謝関係の研究の方が著者のスタイルではないのだろうか。著者自身が諦念の学問と断言した分野のスタイルを借りるのではなく、むしろオールドスタイルでも拘りをもった研究の方が新たな発見があるように思う。

ところで、ポスドクの生態に関するネガティブな記述も少しく注目したい。ポスドクが細胞を丁寧にこそげ取って回収する姿を描きつつ、意地汚い作業だからメンタリティまで意地汚くなると書いてある箇所は世のポスドクの反感を買いそうである。正確に回収することが意地汚い行為で、メンタリティに悪影響を及ぼすとは、ちょっと聞き捨てならない表現だろう。生物系の実験は泥臭いものが多く、単純にあるシーンを見れば、全く子供だましの玩具のようなものを大の大人がいじっているように見えなくもない。しかし、多くの研究者は大きな仮説の検証という目的で実験を行っているのであり、決してメンタリティが作業に影響を受けるようなことはない。メンタリティが悪影響を受けるのは、ラボの人間環境であったり、その研究者が自分の研究に意義を見いだせないときであろう。

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