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zoom RSS 「捏造された聖書」バート・D・アーマン

<<   作成日時 : 2008/07/18 00:19   >>

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タイトルはセンセーショナルであるが、本文批評というジャンルについての優れた啓蒙書であり、帯にあるように歴史ミステリーとしても読むことが可能なくらい著者の話の運びはなめらかである。キリスト教のもつ得難い魅力は、様々な矛盾を抱えた教義であり、その出自であるように思うが、そうした方向での関心も満たされる内容であった。巻頭から、著者の個人的な精神遍歴と信仰に対する姿勢、本文批評の世界への参入の経緯が描かれるが、最初にこうした著者の立ち位置が知らされることによって本書の魅力は増している。

キリスト教はテキスト重視という点で古代宗教の中では異例の存在であるが、当然のごとく文盲が殆どを占める古代社会において、テキスト重視とは読み聞かせの宗教であるということである。しかしながら、各地で読み聞かせをするためにはテキストの複写が欠かせない。印刷術の普及までは、複写は即ちテキストの改ざんにつながることは当然考えられることである。

本文批評とは「オリジナル」の聖書の記述を追い求める試みであるが、この分野の専門家でさえ「オリジナル」そのものを明らかにすることは永遠にないだろう、あるいは「オリジナル」なるものは幻想であるという意見をもっている。これは至極妥当で健全なことのように思う。本書では、聖書の複製に伴い、その記述が様々な要因でゆがめられていく経緯を、可能な限り妥当な推理を進めることで明らかにするプロセスが描かれている。著者は聖書とはその一字一句が神の霊感に基づき述べられたテキストであることを信じる若者であったが、そもそもそのテキストが誤写や改ざんの含まれた(含まれざるを得ない)代物であることを知る。ここには描かれていないが、著者は最終的にはキリスト信仰を捨ててしまう。

聖書が一字一句、使徒の時代から一切変化のない、神の霊感により描かれた書物であるなどという考え方は、日本人にはとうていなじめないものである。仏教の末法思想にもあるとおり、基本的には如何に優れた教えであっても、時間が経過し、沢山の人間が解釈を重ねることにより、最初の教えとは似てもにつかないものになってしまうという考え方は日本人にとっては比較的馴染みやすい。ところが、キリスト教圏では、いまなお聖書の字句を全く持って字義通り事実であると主張するグループが有力な位置を占めている。テキストが神聖で犯さざるべき存在であるから、事実をテキストに沿うように曲げてしまう、あるいはあり得ない突飛な解釈のもとテキストの無謬性を示すというのは、異常な考え方であるが、日本人に理解不能な欧米人の考え方というのはこの辺りに根本的な要因がありそうである。欧米研究者が自説以外の有力な仮説を攻撃する際のえげつなさは筆舌に尽くせないが、いわゆるテキスト至上主義、仮説重視の姿勢(早い段階から統合的な仮説を立てこれを立証する方向に邁進するという姿勢)というのは、この辺りの宗教理解にも絡んできそうである。

著者のような教育を十分受けた優れた人間ですら、古くから伝承されたテキストには一定の比率で不適切な箇所があるという至極当たり前のことを大学院に行くまで気づくことがないという辺りが、アメリカのハートランドにおける宗教教育のカルト性を良く表しているように思う。幼い時期からの宗教教育の有害性はこんなところにもある。また、それぞれの福音書において、使徒の立場や思想が異なることに目を向けずに、聖書におけるキリストの言動は統合失調症であるという判断を下した精神科医も物笑いの種であろう。大勢の人間があるべきキリストについて叙述すれば、それは当然分裂した人間像にならざるを得ない。

欧米人には衝撃を与える内容かもしれないが、日本人にとっては別の意味で衝撃を与える一冊である。キリスト教徒とおつき合いのある方は読んでおいても良いように思う。

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